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  五條楽園って其の弐

128: 名前:T2投稿日:2002/07/23(火) 04:56
湯女さん
いわゆる売防法の施行後のことについては、詳述されている資料が少ないのです。
むしろ、そのあたりからはお茶屋や置屋のお母さんのほうがよくご存じかもしれません。
でも、なかなか聞く機会がないうちに、廃業されたり亡くなられたりで、ここにきて楽園史を
語れる方は急速に減ってきていますね。

さて、五條楽園で言うところの芸妓さんは、実際には「娼妓」ではないか、と突っ込まれる
向きもあるかもしれません。
五條楽園に見られる、いわば芸妓と娼妓のハイブリッド型ビジネスモデルが確立されたのは、五條
楽園の発足と同時である、と考えられます。昭和九年現在の貸座敷営業状況調(京都府警察史
第三巻)によると、この当時の七條新地の貸座敷営業者239軒中「娼妓寄寓するもの」が239軒、
すなわち全ての貸座敷に娼妓が住み込んでいたわけで、今日のように「姫が置屋からお茶屋へ
出向く」というスタイルを取っていなかったことが分かります。
しかし、旧スレにも証言がありましたが、昭和34年に五條楽園として再スタートを切った時には、
この界隈はまさに芸妓一本の街でした。発足当時、お茶屋は旧五條橋下である平居町、南京極町の
各17軒を筆頭に計75軒、置屋14軒、芸妓数は70余名いたとされます。
正月十日の始業式ではお茶屋や芸妓の表彰と舞初め。6月には浴衣会、さらには三味線の発表会なども
開かれていました。「五條小唄」という小唄もつくられ、振りまできちんとついていたそうです。
この頃のピーク時間帯は22時前後で、そこをはずせば必ず誰かしらを呼ぶことができたのと、
一見さんでもお茶屋へあげてくれる(これは今日でも同じですね)、というのが大きなウリでした。
「通し花」の制度がなく、お茶屋で夜通し遊ぶことができない代わりに、廓の中に旅館組合が
あって約20軒が営業しており、ここへ座敷を移すことが可能だったといいます。また
「恋愛」は当人同士の自由であり、ここで刹那の愛が生まれても干渉はされないわけです。
このあたり、うまくできてますね。

娼妓の街として名を馳せた五條楽園で「芸妓(げいこ)さん」という呼び方が残っているのも、
歴史的な経緯がちゃんと存在していたのですね。
しかし、時の流れは残酷なもので、時代の荒波は[以下、陳腐な表現しか思いつかないので中略]、
そして現在の五條楽園のかたちに至るわけです。


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